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英霊の遺書(1)、(2) 

 素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。

 私の写真帳もお前の為に家に残してあります。素子という名前は私がつけたのです。素直な、心の優しい、思ひやりの深い人になるようにと思つて、お父様が考へたのです。

 私は、お前が大きくなって、立派な花嫁さんに、仕合せになったのを見届けたいのですが、若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまっても、決して悲しんではなりません。

 お前が大きくなって、父に會ひたい時は九段へいらっしゃい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮かびますよ。父はお前は幸福ものと思ひます。生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちゃんを見ると真久さんに会っている様な気がするとよく申されていた。またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一の希望にしてお前を可愛がつて下さるし、お母さんも亦、御自分の生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことが親なし児などと思つてはなりません。父は常に素子の身辺を護つて居ります。優しくて人に可愛がられる人になつて下さい。

 お前が大きくなつて私の事を考へ始めた時に、この便りを讀んで貰いひなさい。

 

 昭和19年〇月吉日 父

 植村素子へ

 

 追伸、素子が生まれた時おもちゃにしていた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。素子が知らずにいると困りますから教へて上げます。

(陸軍大尉 植村真久 神風特別攻撃隊大和隊

 昭和19年10月26日比島海域にて戦死 東京都出身 立教大学卒 25歳)

 

英霊の皆様が祖国の為に、故郷の為に、家族・愛する人々を護ろうとしてその命を捧げていったことは事実です。英霊を忘れてはなりません。感謝と敬意をもって永く語り継いでいかなければなりません。

英霊の遺書その2 海軍大尉 千原達郎命 神風特別攻撃隊第二、七生隊

母の愛と祈り

 

私の飛行服のポケットには、お守り袋が入ってゐる。袋は学徒出陣の餞(はなむけ)として京大から贈られたものである。

中には皇大神宮のお守りを始め、諸々方々のお守りがぎつしり入ってゐる。私は朝、飛行服に着替へて学生舎を出ると、胸のこのお守り袋を手で触りながら、明け切らぬ東の空に向かひ、「母上お早うございます。立派にお役に立ちますやう、今日もお守り下さい」と口の中でつぶやく。飛行機に乗る前にも、この所作を繰返すことがある。夜は寝る前に星空に向かひ、「お母さんおやすみなさい、立派にお役に立ちますやう、明日もお守り下さい」と、心でいふ。いつ頃から、かういふ習慣になったのか知らないが、何は忘れてもこれだけは忘れたことがない。女々しいとも思ひ、滑稽だとも思ふ。しかし、この習慣を止めやうとも思はない。私は母の愛と祈りを片時も忘れたことがない。私と母とはいくら離れてゐても、このお互いの愛と祈りとでぴつたり繋がってゐるのである。

 

海軍大尉 千原達郎命

 神風特別攻撃隊第二、七生隊

 昭和20413

 沖縄方面にて戦死

 京都大学

 

 京都府加佐郡岡田上村出身 24