昭和天皇への冒涜を許さない


トリエンナーレで展示された動画―昭和天皇の写真をガスバーナーで燃やす

(上の動画はこのページの最後にリンクをはってある「検証委のフォーラム」の35:48~55:25に載せられているものと同じものです。便宜のためにその部分と同じものをここに紹介しました。フォーラムで行われた真摯な検証作業には敬意を表しますが、作品に対する評価はそれとは相対的に別であることは止むを得ません。)

これが芸術なのか?

皆さんはこの動画には何が描かれていると考えますか?

 

私たちはこう考えます。昭和天皇を焼き殺したい(かった?)、という憎悪が表現されている、と。

 

この動画に出てくる昭和天皇には、4種類の天皇写真があります。

若い時、ややお年をめされた時、白馬に乗った姿、そしてずっとお年をめされた時、この4つの時代区分の写真です。それぞれがガスバーナーで燃やされる。つまり、昭和天皇の全生涯にわたって憎しみが突きつけられているということです。

 

真珠湾攻撃で特殊潜航艇に乗って出撃し未帰還となった戦士、9名を9軍神と称え2階級特進の栄誉を与えたという演説が聞かされますが、動画のその意味は、そうやって人々をおだて上げて死地に向かわせた手練手管だったという罵りでしょう。彼らは殺されたようなものであり、恨んでいるぞ、亡霊になっているぞと言いたいのでしょう。鎧をまとった武士の亡霊が出てきますがそれはそういう暗喩でしょう。

  

(注)特殊潜航艇は5隻出撃しました。1隻に2人乗っていたので10名の出撃でした。しかし、軍神は9名。あと一人はどうしたのでしょう?実は、捕虜となったのです。大東亜戦争捕虜第1号です。その方のお名前を酒巻和男氏といいます(後にトヨタ自動車に入社)。その一部始終が『捕虜第一號』(新潮社、昭和24年)に書かれています。読めば酒巻氏の知性の高さ、人間性の素晴らしさに打たれます。あの時代の人々、若者たちの優秀さを物語って余りあります。
 (写真、前列右端が酒巻和男氏)

 

インパール作戦の矮小化?――従軍看護婦の手紙

 

従軍看護婦の母への手紙も出てきます。それは母への懐かしさにあふれた手紙であり、聞けば涙が流れますが、動画が言いたいことはそういう悲しみに追いやった張本人は昭和天皇だということでしょう。

 

やや細かいことを言えば、手紙の女性はこれからインパール作戦に出動するとなっています。そういう従軍看護婦を選び、その手紙を読ませたのでしょうが、そこには世上に流布されてきたインパール作戦の無謀さ愚かさを踏まえて女性の運命の無内容さを示唆する意図があったのではないかと推測されます。なかなか手の込んだストーリーを織り込んでいるものですが、インパール作戦の評価はそう簡単なものではありません。それはインド独立に貢献した戦い、作戦であったとも言えるのです。連合諸国が、特にイギリスが認めたくない真のストーリーです。動画はそういう歴史認識の多様性をどう考えているのでしょうか?

 

従軍看護婦の女性の運命を悲しむことは私たちも同じですが、しかし、同時にその愛国の真情に限りない敬意と感謝を捧げたいとも思います。

 

いずれにしても、動画はその女性の運命と昭和天皇の責任を直結させるストーリーが潜まされているように推測されます。そこがどうなのかということです。

 

海岸でドラム缶が爆発するシーンがありますが、そのシーンは何を意味しているのでしょうか?
爆発する怒りでしょうか、昭和天皇に対する怒り、憎悪でしょうか。

私たちにはそのように見えます。

 

 

 

見え隠れする殺意

最後に燃え尽きて灰になった昭和天皇の写真、その灰を土足で踏みにじります。焼き殺しその灰を踏みにじりたい(かった?)という憎悪が出ていると見えます。私たちにはそのようにしか見えません。

 

動画の制作者・大浦信行氏は一方でひょっとしたら戦死した人々に同情を寄せているのかもしれませんが、他方で彼らを死に追いやった責任が昭和天皇にあると考えているのかもしれません。よくある思考パターンです。特に異とするには当たりません。ある意味で戦後の歴史認識の常識でしょう。私たちはそれを東京裁判史観などと呼びますが、完全に間違っているとも考えています。そこを正さないことにはこの動画の誤り、という以上に暴虐さは見えてこないでしょう。

 

なお、主催者というか総監督・津田大介氏の言い分を参考までに紹介します。

 

https://twitter.com/i/status/1278834992764694529

 

昭和天皇には「戦争責任」はなかった

昭和天皇の写真をガスバーナーで燃やし、その灰を土足で踏みつけるという行いをあえて映像にとって人々に見せたがるという動機の背景には昭和天皇に対する憎しみがあると推測できます。

 

もし私たちがその推測を述べれば、作者はいいやそれは違うと言うかもしれません。そこは水掛け論になりますのでこれ以上云々しても仕方がありませんが、私たちとしては、作者は率直に本心を語ればいいと思います。それこそ表現の自由であり、聞けばもちろん批判はするでしょうが、語ることを止めたりはしません。正々堂々と思うところを語ればいいのです。

 

ここでは一応作者の動機が上に推測したようなものだとして、その動機は昭和天皇に対する誤解に基づくものだということを説明しましょう。

 

昭和天皇を憎む者がいるとすればそれは大東亜戦争が昭和天皇によって引き起こされたものだという歴史認識があるからでしょう。しかし、それは事実に基づいていません。昭和天皇はアメリカとの戦争には反対でした。しかし立憲君主の立場を守って政府の意思に反対するようなことはなさいませんでした。

 

 

 


 

時代の陰に潜む共産主義者

 

戦争を望んだのは何よりも政府の中にいた共産主義者たちでした。新聞なども戦争を煽りましたが、その中にも共産主義者がいました。

 

アメリカ政府にも共産主義者がたくさん入り込んでおり、彼らが日本を追い詰め挑発することに努めました。

 

このような共産主義者の国際的連携で日本はシナ大陸での泥沼戦に引きずり込まれ、英米蘭などとの軋轢に追い込まれ、経済封鎖されていきました。その過程で必ずしも共産主義者ではない人々も日米開戦は避けられないのではないかと考えました。もし日米開戦が避けられないとすれば勝利への道筋はあるのか、あるとすればそれはどういうものか、そういう研究が密かになされたこともありました。勝利への戦略は皆無と言うことではなかったようです。だからと言って例えば東条英機内閣が戦争を望んだかと言えばそうではなかったし、特に昭和天皇は戦争回避を心から望まれていました。それが歴史の事実です。

 

そのような複雑な動きの中で日米開戦への道が敷かれ、政府は天皇に了解を求めました。立憲君主制の下で天皇は了解するほかありませんでした。昭和天皇が日米開戦を望み各所を突つき回って誘導したということではなかったのです。

 

あの動画の作者は誤解しています。よく研究しなおして誤解から脱却することを望みます。それはなかなか困難な思考作業で、そうやすやすと脱却することは出来ないでしょうが、私たちはそれを期待します。

 

それにしてもです、すでに亡くなられた人を焼き殺したい(かった?)というような発想は異常です。日本の伝統にはそういう発想はありません。誰に対してであれ、その人物を焼き殺したいというような憎悪をあからさまに描いて不特定多数の人々に公開してよい訳はありません。自分(たち)がそういうことをされたらどういう気がするか想像してみたら簡単に分かることです。自分がされたくないことは人にもするなということは人間世界の黄金律です。

 

死者の名誉を護る務め

 

死者にも名誉があります。すべからく名誉は護られなければなりません。生きている者は名誉を傷つけられた時自分で闘うことが出来ます。しかし、死者にはそれが出来ません。であるなら、生きている者が死者に代わって闘わなければなりません。死者の名誉を護るために生きている者が闘うこと、それが生きている者の務めです。私たちはその務めを果たしたい。

それは一般論ですが、昭和天皇は特に名誉を護られてしかるべき方です。それはそのお方が天皇の地位にあるからというだけのことではありません。陛下は敗戦後、マッカーサー元帥を訪ねられ、わが身はどうなっても構わない、日本国民を救ってほしいと申し出られた方です。日本国民の為に命を捧げてもよいと思し召された方です。その名誉を護るに値する方です。私たちはそうしたいと願っています。

 

昭和天皇は思慮深く高潔な方であった

歴史解釈が様々に異なることは普通のことだし、昭和天皇の役割についても様々な解釈がありうることは分かりますが、昭和天皇は憎悪の念を持って見られても仕方ないほど悪の存在ではありません。

 

昭和天皇はまれに見る高潔な人格の人でした。あの時代にともに生きていた人たちはそのことをよく知っていましたが、終戦後、時とともにそれが忘れられていきました。恐らく、いわゆる団塊の世代以後の人達は何も知らないでしょう。学校でも教えられないし、マスメディアでも語られませんから。

昭和天皇の人格の高潔さを示す事例をひとつだけ挙げましょう。

 

 

寒風雨の中での即位祝賀分列行進

 

昭和3年12月15日、天皇即位の祝賀行事を締めくくるものとして皇居二重橋前広場での分列行進が企画されました。関東圏一円から青年男女8万人が参加しての大分列行進です。企画は天皇にも上げられました。もちろん天皇が何か意見を述べると言うことはありません。普通はないのですが、この時はあるひとつだけの注文を付けられました。当日、もし雨なら青年達には雨具を着用させること、そしてお立ち台に天幕は張らないように、と。

 

当日は未明から豪雨、寒風も吹きました。関係者たちは、陛下はああはおっしゃっていたがこの寒風豪雨では天幕を張らないわけにはいかないと考え天幕を張りました。そのことが天皇のお耳に入った。天皇は非常に強く天幕を取り去るように言われました。止む無く天幕の撤去が行われました。

 

それを見た人々は一体何事かといぶかしみました。分列行進は中止になるのではないかと思った人々もいました。ある若手の陸軍将校もいぶかしみ、スタッフに問い合わせに来ました。スタッフは、中止ではない、陛下の思し召しであることを告げました。

 

その将校は全てを理解し、感激して馬を駆って待機していた青年男女たちに告げて回りました。彼らもまた感動しました。それまで豪雨の中で寒風にさらされ震えていた彼らだったがこんな雨具など羽織ってなどいられないと脱ぎ捨てる者が続出しました。

 

 

ずぶ濡れで微動だにしなかった天皇

 

さて、午後2時の時刻となり分列行進が開始されました。天皇はお立ち台に上がられる。そこに天幕はない。まだ雨は降り続き寒風は吹きすさんでいます。側近は陛下の身を案じ、雨具を着せました。天皇は一旦は雨具を羽織られました。しかし、お立ち台の階段を上り詰めたその瞬間に雨具を脱ぎ捨てられました。もはや側近たちにはどうすることも出来ません。彼らも寒い。ぶるぶる震えながら陛下を遠くから見つめるだけでした。

 

それから1時間20分、陛下の前を分列行進の青年たちが通り過ぎてゆく。陛下は彼らに向かって挙手の答礼をされながら微動だにせず立ち尽くしておられました。

 

分列行進が終わり、陛下がお立ち台を去られた後、人々がお立ち台の回りに集まってきてしきりに何かうなずきながら去っていく光景が見られました。つまり、彼らはお立ち台の絨毯にくっきりと残された乾いた足跡、雨にもかかわらず少しも濡れていなかった陛下の足跡をそこに見たのでした。

 

 

  

 

東郷元帥の乾いた足跡と同じものを見た

 

日本人なら皆知っている一つの先例があります。日露戦争、日本海海戦のとき戦艦三笠の艦橋に立ち尽くして微動だにしなかった東郷平八郎元帥の足跡のことです。降りかかる波しぶきの中で微動だにせず戦いの最初から最後まで立ち尽くしていた元帥の乾いた足跡のことです。

 

分列行進の間、降りしきる冷たい雨の中で微動だにしない昭和天皇の姿を見て、人々は東郷元帥の乾いた足跡のことを思い起こし、もしやと思って集まり、そしてそこに同じものを見たのでした。

 

昭和天皇27歳の時の逸話です。このようなことはその後いくらでもありました。

 

 

三島由紀夫の感動

 

三島由紀夫氏もある時、というのは昭和45年5月、東大全共闘の諸君との大討論会の場でと言うことですが、彼がまだ少年だった頃、ある儀式において微動だにしない天皇の姿を眼前にし、その律儀極まりない人格に打たれて尊崇の念を持たざるを得なかったというという思いを吐露したことがあります。会場を埋め尽くした2000人の学生たちは静かに耳を傾けていました。その頃は全共闘諸君も昭和天皇を憎悪することはなかったように思われます。その討論の一部始終は本になり、昨年(令和2年)映画の公開も行われました。

 

昭和天皇に対する憎悪を持つ者がいるとすればそれはあまりにも歪んだ、あえてきつい言い方をしますが、荒唐無稽な嘘ごとを刷り込まれているからに違いありません。

 

最後に、公平を期するため、次のものをはっておきます。
私たちの言い分は明確で、変更することはありませんが、皆さんは様々な意見を聞いて判断してください。
面倒なことだし、時間もかかることですが、それは民主主義のコストだと思ってください。

(184) 「表現の不自由展」中止問題 検証委や出展作家らがフォーラムを開催(2019年9月21日) - YouTube